今回はアドラー心理学の嘘と危険性について書いていきます。
「嫌われる勇気」の嘘と危険性と読み替えても良いです。
アドラー心理学や「嫌われる勇気」を知って悩んだり疑問を持ってここに来た方は、是非最後までお付き合いください。
はじめに
私はアドラー心理学が好きではありません。なので気分を害されるような表現や、批判的な意見が多いことを初めにご了承ください。
「嫌われる勇気」という青い本が流行り、アドラー心理学が広まりました。それにともないアドラー心理学関連の本が流行りに乗ろうと沢山発売されました。今やアドラー関連の動画もたくさん出ていますね。
私は2018年末辺りまでアドラー心理学については一切認知していませんでしたが、本屋でたまたま青い本の存在を知り、アドラー心理学について調べました。ですが、どうも納得できないことが多く、どうしてこんなものが流行ったのか理解できませんでした。
特に気になったのが、圧倒的な肯定的意見の数でした。本のレビューの中には、アドラー心理学を妄信しきっているようなものも多く見かけました。私はこれにゾッとしました。こんな心理学が世の中の常識になったら世紀末状態になると思ったからです。
冗談です。ちょっと言いすぎました。でもゾッとしたのは本当です。というわけで今回は、私が考える「アドラー心理学の危険性」と「トラウマや鬱の存在」について語っていきたいと思います。
トラウマは存在しない!に科学的根拠なし
まずアドラー心理学には明確な科学的根拠がありません。あの青い本にも「アドラーはこう考えた」というような体の文が多すぎます。まず明確な根拠を提示して欲しい所です。しかし不思議な事に、どこにも書かれていないんです。特に科学的実験や検証もせず、人の心を解き明かしたアドラーは神か何かなのでしょうか?
いえ、言い切っているのはもしかしたらアドラーではなくアドラー心理学関連の本や動画を作っているクリエイター達なのかもしれません。そもそも科学的根拠があっても、絶対など存在しないのが心理学です。しかもアドラーって100年以上も前に生きた人間です。今ですら人の心と体の関係は完全に解明されていないのですから、アドラーが言ってたから正しいなんてのはかなり無理があります。
「○○は存在しない」とか、「アドラー心理学ではこうである」というような、まるでアドラー心理学が絶対的に正しいかのような文をたびたび見かけますが、せめて科学的根拠くらいは同時に解説してから豪語して欲しいものですね。
アドラー心理学は思想や哲学、自己啓発と言った方が的確
アドラー心理学は心理学とはとても言えません。なぜなら科学は、可能な限り理論や根拠があって示されるものだからです。仮に分類するなら、考え方・思想・哲学・自己啓発と言った方が正しいでしょう。少し過激に捉えれば、宗教のように見えてしまう事もあります。私的には、アドラー哲学などに改名したほうが良いんじゃないかと、いつも思います。
アドラー心理学が嫌いと言いましたが、”結果だけ見れば”、考え方や哲学としてなら多少納得できる部分はあるし、”結論だけなら”私も一部似たような考え方を持っています(ただし同じ結果に至るまでの思考の過程は違う事が多いので、同列扱いされたくはないですが)。ただ、世の中では心理学として広く認知されてしまっているのが問題です。心理学だから言ってる事は全て正しいと思い込んでしまう可能性があるからです。
アドラー心理学についての本や動画での伝え方にも問題があると思います。心理学に絶対はないのに、あたかも絶対の真実のように言い切ってしまうような言葉選びが多用されていますからね。そりゃ勘違いする人が増えるのも当たり前でしょう。
青い本の著者も、アドラー心理学は勘違いされやすいと発言してますしね。それを分かっているなら、まず勘違いされないような書き方をして欲しいなと思いました。少なくとも私には、あの本が勘違いを解消するような努力をしているようには感じられませんでした。
そもそも過去に囚われても仕方ない。”今”が大事。ということは、アドラー心理学に頼らなくても、アドラー心理学でなくとも、誰でも気づきうる可能性のある事なのに、心理学とはこれいかにって感じです。だったら私も自力で今が大事ということに気付いたので、これに「○○心理学」と自分の名前をつけてもいいですか?もしダメならなぜアドラー心理学は心理学として通るのでしょう?不思議でなりません。
トラウマの否定の危険性と問題点
アドラー心理学ではトラウマは存在しないと多くの人が語ります。これを信じ込んでいる人も多いです。更にはトラウマは存在しないのだから、鬱やPTSDなど全ての心の病気も存在しないと解釈を拡大する人までいます。
しかし残念ながらトラウマも心の病気も存在します。このことは科学的にも証明されてきています。それにも関わらず、アドラー(もしくはアドラー本の著者)はトラウマはないと言い切り、それを一切疑いもせず容易く信じまうのは、心の病気への理解を害する大きな問題に繋がる可能性が高いです。なぜならアドラー心理学を根拠にしたトラウマ否定説のせいで、本当に心の病気で苦しんでいる人を傷つける可能性があるからです。
アドラー心理学を解説する本や動画では、心の病気を一蹴している事が多いですが、現代では心の病気は脳の病気であるということが分かっています。私たちが心の病気と呼んでいるものは脳にダメージ、つまり脳がケガをしている状態なのです。心の病気は目に見えないので、精神的な問題、気の持ちようだと思いがちですが、しっかり脳は傷ついているのです。分かりやすい動画を見つけたので、一度視聴してみてください。
このように脳へのダメージは色々な原因があります。虐待、いじめ、病気、事故や災害、意外かもですがウイルスが原因の可能性もあります。
このように、心の病気には何かしらの原因が存在します。つまりアドラー心理学を知り、トラウマなどの心の病気が存在しないんだと安易に信じてしまうのは迂闊なのです。トラウマ否定説を信じるのは、古い考えの体育教師が未だに「水を飲むのは甘え」と根性論を言ってるのと変わらないようなものです。気を付けましょう。
トラウマや鬱、PTSD等の心の病気を抱えている人へ
心が辛いと感じている人や、精神的疾患を抱えている人は、アドラー心理学を無理に真に受けなくて大丈夫です。なぜなら所詮アドラー心理学は考え方の一種にすぎず、トラウマや鬱、PTSDなどの心の病気には明確な原因が存在するからです。
だからもし、あなたが心の療養中なのであれば、あなたのペースでゆっくり治してください。アドラー心理学を誰かから教えられたり、アドラー関連の本を見つけて読んで知ったりしても、「私が今こんな状態なのは、自分自身のせいなの?」と思い込む必要は全くありません。
「周りに合わせなきゃ!」と自分で自分を追い詰めてしまう人は、まずは自分を許してあげる事、ゆっくり休む事から始めましょう。焦らなくて大丈夫です。もし本当に辛いと感じた時は、信用できる誰かを頼ったり、ちゃんと病院に行って相談しましょう。決して1人で抱え込まないでくださいね。
アドラーはトラウマを否定してない?
一応アドラー自身はトラウマを否定していない説もありますので、そっちにも軽く言及しておこうと思います。そもそもトラウマ否定説は拡大解釈で、アドラー自身の著書には明確にトラウマを否定するような文章は存在しないらしいです。まあ元になったであろう文章は、確かに捉え方によってはトラウマは存在しないと言ってるようなものだと見て取れなくもないのですが、確かに直接的にはハッキリと断言してない感じです。
何故アドラー心理学=トラウマ否定説が独り歩きしているのか?
しかし実際問題して、アドラー心理学に感化されて「トラウマは存在しない」、「あなた自身の問題だ」と考える人は多いです。ではどうしてアドラー心理学ではトラウマは存在しないという説が大々的に広まったのでしょうか?
アドラー心理学が勘違いしやすい学問だったとして、トラウマの否定を本来してないものだったとするなら、そう勘違いされないようにアドラー心理学に関する本や動画は、何かしらの説明努力をしないといけないでしょう。ですが多くのアドラー関連の解説動画や啓発本は、その努力をしていません。補足説明もなしに「トラウマは存在しない」と断言しちゃってますからね。しかもアドラーがそう断言したかのように演出します。理由は単純に勉強不足か、そうした方が動画の視聴数が伸びたり、本が売れやすくなるからじゃないでしょうか?人は正しさよりも分かりやすさに流されやすいものですからね。作る側はその辺をちゃんと理解してるのでしょう。
トラウマ否定説が広がった理由として、情報の受け手側の意識も重要でしょう。何故なら人間にとって真実は二の次で、「人は見たいものだけ見て、信じたいものだけ信じる」ものだからです。実際、「トラウマは存在しない」という言葉は、物凄く強いインパクトがあります。もし、「思わず信じてみたくなるキーワードランキング」が存在するのなら、上位に食い込むこと間違いなしでしょう。ちなみに、これは何もトラウマ否定説に限った話ではありません。「この考えは自分に合ってたから、他の人にとってもこれは正しいはずだ」などという、いわゆる確証バイアスに囚われやすいのも人の性質ですから、常に間違った情報に踊らされないよう、客観的な視点を持つように心掛けていきたいものですね。
それにしても、まさか百年後の未来でそんな風に解釈・利用されるなんて、もしかしたらアドラー自身が一番驚いてるかもしれませんね。もしかしたらアドラーは目の前の患者を助ける為に、その言葉に科学的根拠はなくても、「君なら出来るよ」と、ただ患者を励まそうとしただけなのかもしれません。
それを現代人がさも完璧な理論のように取り上げて、多くの人を無意識・意識的関係なく騙してしまっているのだとしたらとても恐ろしい事です。まあこれもただの憶測で、アドラーもこの世にはもう存在しないので、何が真実か確認のしようもないですけどね。
アドラーは一休さんである
ここで私もひとつ持論を伝えたいと思います。
アドラー心理学では例え話が良く出てきます。そして多くの人がそのたとえ話に納得します。私はそのたとえ話が上手いなと思いましたが、しかし同時にこうも思いました。「その例え話は科学的根拠がなく、ただの言葉遊びだ」と。要はただの屁理屈・とんちなんです。いわば一休さんのようなものです。
看板「このはしわたるべからず」
一休さん「じゃあ僕は端ではなく真ん中渡るわ」
私「いや言葉遊びは上手いけど、それただの屁理屈やん!」
このような感覚と全く同じ印象を私は受けました。実際、アドラー心理学の例え話は穴だらけなので少し例に出しましょう。
同じ辛い過去を経験した全員が引きこもったり病気になったりするわけではない。
これはトラウマを否定する時にありがちな説明文です。一見納得できる。正しいように見えてしまいますが、冷静に考えれば当たり前の話です。
例えば、同じ食事を摂ったからって、みんながみんな同じ体型になったりしますか?しませんよね?なぜなら人によって代謝はそれぞれ違うからです。
学校の体育の授業で、全員が同じだけの距離を走ったとして、皆同じように疲れたりするでしょうか?そんなことはないですよね?ものすごく息切れする人や、汗1つかかず全然平気な人もいます。なぜなら人によって体格や身体能力は異なるからです。
仮にその中で、走るのがとても遅い子供がいたとします。もしかしたらその子は、周りから見ると努力が足りないと思われるかもしれません。しかし目に見える部分だけが必ずしも真実とは限りません。実際に心拍数を計測してみると、実は一番足が遅かった子供が誰よりも高い心拍数を叩きだしていて、一番頑張っていたという事もあるのです。
結局のところ、全く同じ体験などこの世には存在しないのです。それなのに目に見える部分だけで判断して”同じ体験”と一蹴して、「出来ている人もいる。出来ないのはあなたの努力が足りないからだ!」なんて言って良いはずはないのです。
心の傷の度合いもこれと同じことが言えます。同じような辛い経験をしたとしても、全く同じ傷がつくわけではないのです。運よく浅いキズで済む人もいれば、深いキズを受けてしまう人もいます。トラウマ否定派の人は、そこを履き違えないようにしましょう。
原因だけ伝えて治してくれない医者
もうひとつ例を出しましょう。あなたは熱が出たので病院に行き、診察を受けています。一通り診察が終わった医者があなたに伝えます。
「これは風邪ですね。喉が腫れたせいでしょう」
あなたは「そうですか」と言い、医者はそれ以降何も語ろうとしません。
長い沈黙の後、医者は「次の人ー」と言葉を発します。
「いや治せよ!」と思わずあなたはツッコミます。
これもアドラー心理学を説明する時にありがちなパターンです。原因は重要じゃない。大事なのは治すという事なのだから。原因はおいといて風邪を治す方法を教えましょうと。
でも冷静に考えてください。普通原因を伝えてそれではい終わりなんてする医者はいません。つまり最初から例題としては崩壊しています。
それに原因が分かったからこそ、どう対策すべきか、どういった治療や薬を処方するべきかが分かるはずなのです。
「過去」つまり過程や原因は重要です。そもそも原因と向き合わずに、その場しのぎの治療をしてもいずれ再発するだけです。だって原因が分からないと予防のしようもありませんからね。
コーヒーをこぼされて怒った人
最後にもうひとつ、感情に関する例題を。
とある喫茶店で、男性客がスタッフにコーヒーをこぼされて大声で怒鳴りました。この男性の感情を、アドラー心理学の目的論では、「コーヒーをこぼされたから大声で怒った」のではなく、「大声を出すために怒りの感情を作った」と説明します。大声を出すということで何かしらの目的(スタッフに言う事を聞かせたかった等)を達成したかったから、怒りの感情を後から作り上げたと。それともし、そのスタッフが絶世の美人だったら、その男性は怒ってなかったのでは?うんぬんかんぬん。
正直私は、たとえ話の中で一番残念な極論だなと感じました。怒りという感情を悪者にして、目的論の主張を無理やり通そうとしているようにしか見えません。
そもそも大声を出したことはともかくとして、コーヒーをこぼされて怒るってそこまで変な事でしょうか?それに、「美女だったら怒らなかったのでは?」ってのも、人によっては怒るんじゃない?って普通に思いますよね。もしくは、怒りの感情が湧いた後に美女を見たことで、怒りが収まる事もあるでしょう。皆さんも例えばイライラしてるときに、可愛い動物の画像や動画を見たりして感情が穏やかになった経験、一度くらいはあるんじゃないでしょうか?
それと、今回はコーヒーをこぼされたというまだ些細な事ですが(もしコーヒーがアツアツだったなら些細とは言えないけど)、例えば「あおり運転に出会った」とか、「他人から暴言を吐かれた、暴力を振るわれた」などの理不尽な事で、怒りや悲しみの感情が湧いた時にも、その感情も何かの目的のために後から作り出した物とか言われるんでしょうか?それこそよほど理不尽だと思います。どうでしょう、例題としては正直穴がありすぎますよね。
というか怒るということ自体は何も悪くないんじゃないかと私は思います。大事なのは、怒りの感情を目的論で解釈するより、怒りの感情が湧いた後に、どうコントロールするのか?つまり湧き上がった感情を表に出さない方法などを学ぶ方が、よほど現実的だし重要だと私は思います。
まあ、もしあなたが、目的論の解釈の方が感情をコントロールしやすいと言うなら、それはそれでいいと思います。自分に合った考え方を選べば良いんです。ただ例え話としては無理があるという話ですから。
アドラーは一休さんとして患者を救ったのかも?
昔は心の病の明確な原因なんて分かりませんでした。科学技術が今とは違い全然発展してませんから。ですからアドラーは、心に病を抱えている人のために「一休さん」として励ます事を選んだのかもしれません。その言葉に科学的根拠はなくても、結果的にその人が救われれば問題ないという考えですね。まあこれも私のただの想像に過ぎませんが。
アドラー心理学は劇薬である
アドラー心理学は健康的な人じゃないとまず使いこなせない劇薬です。場合によってはトラウマ等への認知を歪める事にもなりますから、健康的な人が使う場合でも、副作用のリスクが高い劇薬と言えるかもしれません。「心理学だからすべて正しいはず!」といったような、特に哲学を超えるような解釈での利用は大変危険です。
副作用に影響されず、アドラー心理学の良い部分だけを正しく解釈して、適切に抽出して利用するには、心理学や脳科学への深い知識、それに高い教養などが必要だと私は思います。動画や本でちょっと知ったくらいで、多くを理解した気になって利用するのは、とても危険なのだという事を意識しておきましょう。
アドラー心理学を他者に押し付けないで
アドラー心理学を使って、あなた自身の人生が良くなること自体は否定する気はありません。しかしもし、あなたがアドラー心理学を妄信しているなら警告はさせて欲しいです。まず、アドラー心理学や目的論だけで世の中のすべての事が説明できると思わないでください。
次に心理学って難しい学問です。特にアドラー心理学は扱いが極めて難しい題材と言えるでしょう。なので、素人がアドラー心理学(そもそも心理学ではない)を他人に振りまく行為は、言葉の凶器を振りかざす事になりかねません。
迂闊に「トラウマは存在しない」という言葉を信じこみ、思考停止してアドラー心理学を他者に押し付ける行為は、本当にトラウマを抱えている人を追い込むことにつながる可能性があります。そういった危険性を常に考えておいて欲しいのです。
さいごに
先にも述べたように、人生を良くする為にアドラー心理学をあなた自身の中で利用するのは悪いことだとは思いません。誰が何を信じようが最終的にはその人の自由ですからね。
ただ出来る事なら、アドラー心理学だけで物事を考えるような事はしてほしくないのです。あくまで「こういう考えもある」程度にしておかないと、一種の思考停止状態に堕ちる危険性があるからです。「Aのような考え方もあればBのような考え方もあるよね」と、柔軟な発想をして欲しいのです。人の心や思考に絶対なんてものは存在しないのですから。
アドラー心理学の押し付けによって、不幸な人が増えない事を祈るばかりです。
まとめ:アドラー心理学は哲学の一種!自分に合わないと思ったら切って捨てて良し!
余談
トラウマが存在しないと解説する動画はいくらでもありますが、それを否定するという動画は現在は非常に少ないです。なのでもし分かりやすい動画を見つけたら下に随時貼っていきたいと思います。私の言葉だけだと信じられないって人はそちらも参考にしてみてはいかがでしょうか?
コメント
大学に入ってから図書館で小難しい本を借りて読む機会が増え、巷に跋扈する自己啓発本がどれだけ不確かな情報で書かれているかがよくわかりました。それとアドラー心理学はいわゆる自己啓発と同じ類だとら思います。禅問答を繰り返す宗教と変わりありません。とはいえそれで心が軽くなる人々もいるので一つの考えとして取り入れる事自体は否定しませんが、アドラー心理学がまるで真理であるかのようにインフルエンサーを通じて布教されているのを見るとなんとも言えない気持ちになります。
アドラーのトラウマ否定に限らず、影響力の強い人が情報を鵜呑みにし、それをさらに誇張して発信してしまった場合、
「あの人がこう言ってたから間違いない」と思い込みやすいのが人間の性なんですよね。
なので、間違ってる可能性が高い情報が常識として広まった時に、「それはおかしくない?」と止める手段がないのが歯がゆい所ですね。
僕はアドラー心理学は宗教だとは言いませんが、宗教的要素を持っていると思っています
アドラー心理学に心酔するのは自由です 一方でアドラー心理学に無関心であったり、批判的であることも自由なはずです
ところが、アドラー心理学礼賛者の「アドラー心理学を学べ」という押しつけの多いこと、多いこと
「別にあんたが信じるならそれでいいやん」と言いたいです
岸見氏は達観したように装っているけど、現実はたまにいる精神的に未熟な老害だと思います。
本人は自分のこと正しいと思っているだけで、周りから見るとなんだこの幼稚園児、って老人は結構いますよね。
こういう人は経験則で色々と語っているのだろうけれど、思い込みが強すぎるんです。
所々にある極端な主張が無ければ真っ当な話もあると思いますけど。
私もこの原因論の治療のところの例えは不適切だと思いますし、もっと悪質で思考誘導していると感じています。
あなたが風邪をひいたのは薄着で出かけたからと言われて風邪は治りません。確かに。
では、あなたが風邪をひいたのは会社を休みたかったからです、と言われて風邪が治るのでしょうかってことですね。
他の部分は原因論と目的論の対比になっているのに、ここの部分だけは精神的なことに作用させて物理的な病気を治せないという不適切な例えになっていて、原因論はだから不適切だと主張しています。
その他、意図的にやって原因論を陥れよう的な主張がちょくちょくなされているので、個人的にこの本は歪んでいると思います。
原因結果に囚われ過ぎていても駄目ですが、この作者は囚われるなって言葉そのものに囚われている感があります。
実際に岸見一郎のTwitter見て分かりました。この人は自分の気に入らない相手なら信頼も尊重もしなくていいと思ってます。原因論者に対しても同じで相手の立場に立って物事など考えていません。自己矛盾しています。
追記。
岸見一郎のTwitterは例えば、コロナに負けるなって標語に対して、コロナになった人はコロナに負けたわけじゃないだろうに、と発言をしています。
文章の意味をそのまま直球に解釈しかできないんですねこの人。
だから、コロナに負けるな、がコロナの影響にも負けるなって意味だとか、そういうふうには考えずにそのまんまコロナに負けてないよね的なトンチンカンなツッコミを入れてしまうんです。
相手の立場に立って考える信頼や尊重ができている人の言葉ではないのは間違いなく、自己矛盾してます。そもそも、相手の立場に立って(自己受容などもですが)を完璧にできるような人はおそらく悟り開けるような人なので、岸見一郎はなんか勘違いしちゃっている可哀想な人なんだと思います。
嫌われる勇気の内容に「人の悩みの全ては人間関係」書いてありました。
では体を負傷した時の痛みの悩みは人間関係が問題なのでしょうか?
ペットが死んだときの悲しみの悩みは?
餓死の悩みは?
自身の寿命の悩みは?
以上の理由から私はこの本について否定的です。
そうですね。全ての悩みが人間関係なんて私もありえないと思っています。
例えば一生を無人島でたった一人で生活することになって、人間関係の悩みと無関係な状態となったとします。
じゃあもう悩みが発生しないのか?といえばそんなのあり得ないですからね。住む場所や食料で悩みを抱えるはずです。
無人島じゃなくてもそれは同じはずです。
対人関係の悩みだけでなく、色んな疑問に対しての説明がなく、ほぼ屁理屈のみで答えを言い切るだけのこの本は、とても人に勧められないし、自分に合ってないと思ったら切り捨てて良いと思いますよ。
こんにちわ
私はあなたの嫌いなアドラー心理学を利用しているものです。
ですが。。。うん。確かに、危険や嘘っぱちと言われるのも納得しちゃってます。
嫌われる勇気という本に対して、アドラー心理学を多くの人に知ってもらうことにはいい手だったかもしれないけど、アドラー心理学を誤解しないように知ってもらうという点では、もう少し良いやり方もあったんじゃないのかなぁと私は思っています。
正直、あなたのおっしゃることには一部賛成なんですよね。アドラー心理学はさておき、嫌われる勇気は危険というのには否定できません。
どんな特効薬でも量を間違えれば毒になるのですから。嫌われる勇気は量を間違えてしまっているように私には思えます。
(誤解は説明不足が元なんだから量は少ないだろって?それは言わないお約束)
さて、アドラーが好きな私がコメントをどうして書いたかといいますと、アドラー心理学自体を否定されるのはちょっと寂しいなぁって思ったのですよ。
これはただの憶測で、間違えてたら大変失礼ですから申し訳ないのですが。。。ぐみんさんは「嫌われる勇気のみ、もしくは、わかりやすさを重視した専門的ではないアドラー心理学の本を重点的に読んだ」のかなぁって思ったんですよ。見当違いだったら、ごめんなさいね。
それで、もしアドラー心理学を否定するのであれば
・アドラー心理学の基礎
・アドラー臨床心理学入門
・現代アドラー心理学
・3最からのアドラー式子育て術「パセージ」
・クラスはよみがえる
といった専門的な本もよかったら読んでみてほしいなぁって思ったんですよ。
(これらの本もなかなか誤解されそうな部分がありますが。。。だからこそいろんな本を読んでご自身で信じられるアドラー心理学の理論・技術・思想を選び取る必要があるかもしれないです。)
また、嫌われる勇気の内容に対しての批判であれば、アドラー心理学を否定するのではなく嫌われる勇気を否定してほしいなぁともお願いしたく思ったんです。
もし、ぐみんさんが私に「アドラー心理学はこんなことを主張してると私は思っているから、ぐみんさんのその指摘は誤解かもよ?」と話させてくれる機会をいただけるなら、ぜひお話したいです。
一応ですが、最初にも書かせて頂いたとおり、嫌われる勇気の批評としては私はこの記事、的確に指摘されていると思っています。もし、そこを誤解させてしまっていたらごめんなさいね。
長文失礼しました。
わざわざ丁寧なコメントありがとうございます。興味があればおすすめされた本に触れる機会もあるかもしれません。
おっしゃるとおり、文章構成も含めて嫌われる勇気という本はとても嫌いですが、日本に広まっているアドラー心理学もやはり嫌いですね。
最近ではアドラー式子育てやアドラー式の仕事術とかにも疑問をもっています。
ただ、昔と今じゃアドラー心理学への解釈は変っている部分もあるのですが、哲学として根本的に目的論とか共同体感覚とかが肌に合わないので嫌いなのは仕方ないですね。
まあ考え方にも絶対はないので、そのうちまた考え方も変わるかもしれません。一応アドラー心理学について知った時自分なりに調べて、嫌われる勇気以外でアドラー心理学やアドラーについて知った上で今の考えに至っています。
正しいかは別として、考え方的には原因論やポパーの反証可能性とかの方が好みなんですよね。
まあ調べた上でもまだまだ解釈違いとかはあるでしょうが、そもそもが哲学に正解はありませんしね。ただあくまで世間一般的に広まっているアドラー心理学は全て真実のように語っている為、とても危険性を孕んでいるという話なので、タイトルは間違っているとは言えないかなと思ってます。
今のアドラー心理学って1+1の答えは2ですが、世の中の99%が3と答えたら3になる的な、いわゆる集団心理が真実を作っている感じだとは思います。少なくとも日本で広まっているアドラー心理学は嫌われる勇気がベースになっている状態ですから。
アドラー心理学に関係する動画やウェブページもほとんどが嫌われる勇気をベースにしていますから、もうそっちが真実になっちゃってる感じはしますよね。まあぶっちゃけその方がアクセス数とか稼げるからでしょうね。だからせめて誤解がないように解説くらいしっかりして欲しいと思うし、ちゃんとした勉強必要だよねって言ってるわけです。なのでやはり(日本で広まっている)アドラー心理学は嫌いです。
もちろんアドラー派さんはアドラー心理学で人生が豊かになっているのは良いと思いますし、私は私の考えや気に入った哲学や生き方で生きていくだけなのです。
求められている回答になっているかは分かりませんが、文章が長くなってきたし、細かく私の考えを述べているとキリがないので、この辺で終わりにしたいと思います。
こちらこそ、親切丁寧に返信してくださり、嬉しい限りです。
なるほど。ぐみんさんの「(日本で広まっている)アドラー心理学は嫌い」というお気持ち、とても理解できます。アドラー心理学が好きだからといっても、昨今、日本で流行っているアドラー心理学が好きかと問われると、Noと私は思っていますから。
そして、私も日本では「アドラー心理学=嫌われる勇気」という考えが流行っているということを思っていますし、それに対して勉強不足なのでは?という危惧もしています。
ですから、多くの人に「嫌われる勇気は危険だ」と伝えるために「アドラー心理学は危険だ」ということは、1つの効果的な策だと私も思います。
ですが、私には、この記事を読んだ人が「アドラー心理学は悪いものだ」と受け取り、有益なアドラー心理学の一面を学ぶ気持ちを機会を失ってしまうのでは?という気持ちがありました。
そして「もっといい方法はあるんじゃないのか?」「日本で広まっているアドラー心理学を否定し、世界で有効活用されているアドラー心理学を否定しない。そんな誤解を生まない良い手が何かあるんじゃないのか?」と思い、あのような提案をさせていただきました。そして一緒に協力してその方法を考えたいと思っていただけなのです。
さて、1つ、気になることがあります。ぐみんさんの「私は私の考えや気に入った哲学や生き方で生きていくだけなのです。」というところです。
もし、私がぐみんさんの生き方を否定しているように感じられたら、ごめんなさい。そんなつもりはないのです。自分のコメントを読み返すとそこら辺の配慮がかけていたかなと思っています。ぐみんさんにアドラー心理学を押しつける気も好きになってほしいという気持ちもないのです。
前述したとおり、私は「ぐみんさんのこの記事を読んだ誰かが、日本で広まっているアドラー心理学だけじゃなく、アドラー心理学自体が危険なものだと誤解しちゃったら、寂しいな。」と思っただけなのです。
ぐみんさんは「日本で広まっている(誤解され曲解された)アドラー心理学は危険だ」と言いたいのだろうと思っています。
そして、私は本当のアドラー心理学を誤解せずに学んでほしいと思っています。(本当のというのも変な感じがしますが。。)
おそらく、私もぐみんさんも、主張したいこと、目指したいことは、根本的に同じなんじゃないかなと感じています。
ですから、どうか、攻撃されているかのような不愉快な思いをさせたのなら、ごめんなさいね。
ぐみんさんのお考えが聞けて私は楽しかったです。返信していただきありがとうございました。
実の親からの性的虐待で重度のトラウマPTSDをかかえ治療中の者です。
最近にアドラー心理学を根拠にトラウマは甘えと持論を展開する人を何度も見かけ
その度に心を痛めていましたが、ぐみんさんのお陰で
心に刺さった棘が取れたような気分です本当に有難うございます。
本人にしか分からないつらい体験を、非化学的な根拠で甘えだと理解されないのは辛いですよね。
これからも同じように理解されないシーンに遭遇することもあるかと思います。
でもこの記事を見たことで、わずかでも心が晴れたり、理解されない事に対して、心へのダメージが軽減されたり、スルーできるようになるキッカケになれば嬉しいです。
コメントありがとうございました。
少なくなくとも、アドラーを肯定する人がいるならば、よほどの病的な疾患でなければ改善が見られるということではないですか?
本当の精神病には効かないなら、アドラーに頼らずともまた別の治療をすればいいはずですよね。
確かに、処方された薬が違ったら怒るのは分かります。
ただ、アドラーの本を読んだのはご自身の意思であり、その内容が思わしくなかったからといって頭おかしい人そのものとかいっちゃうのはどうなのかと。
いったい誰に押し付けられたというのですか?
また宗教の一種という表現も気になります。
多少なりとも共感するの事があるのならば、もう少し穏やかな表現にしていただけませんでしょうか?
また、アドラーの本を読まない以外で、私達の普遍的な悩みを解決する方法があれば、ぜひご教授ください。
もちろん、出来ないなら、別にいいです。
しかし、お分かりかと思いますが、こういう事を書かれるという事は、私のような面倒くさいコメントも引き受けるということですよね。
返信も求めませんので、ただ私も思った事を書いた次第です。
ご失礼ございましたら、申し訳ございません。
確かに、自分にアドラーが合わないからとそれをむやみに非難するのは違いますね。
当時は思った事を感情が高ぶったまま、自分が思ったままに書いてしまったので、
過度すぎる攻撃的な文章はできるだけ控え、修正していきたいと思います。
ただ、嫌いなものは嫌いですので、文章にある程度感情は乗ってしまいますし、批判的な発言をする以上、誰もが納得する表現にはならないとは思います。
思った事を書いただけで、冷静な反論や分析をしたりする記事のつもりはないですから。
悩みの解決についてはテーマにしてないですし、普遍的な悩みというのがあまりにも範囲が広すぎるので答えられないです。
強いて言うなら「人それぞれ対処法は違う」ですね。
なのでアドラーで悩みが解決したりする人もいるならそれでいいとは思います。
ただ一部の人が間違った知識を覚えて、それを押し付けてくるので、それはやめてねって話ですし、
アドラーと似たような考え方を手に入れるのに、わざわざアドラー心理学を使う必要もないとは思います。
もっと科学的な根拠に基づいた哲学や心理学はいっぱい存在するので。
もしトラウマなどへの正しい知識を持ったうえで、適材適所にアドラー心理学を上手く使っている人がいるならそれは良い事だとは思います。
ただ最後の面倒うんぬんのくだりはよく分かりませんでした。この一言自体がすごく面倒に感じたので、そのせいでコメントの承認や返信するか迷いました。
あなた自身が思ったことなんですから、そんな事をいちいち言う必要ないと思いますよ。もっと堂々と意見されれば良いと思います。
アドラー心理学では、他人の課題に踏み込まないとして、他人に自己責任を問うてはいけないと岸見先生も言われています。
ただ、アドラー心理学の信奉者は口にしないだけで、「だからお前は幸せになれないんだ」と考えていると思います。
幸せになる真理を知った傲慢さ、幸せになる真理を知らないあるいは知ろうとしない愚者に対する侮蔑を感じます。
「それは劣等コンプレックスに過ぎません」と言われてしまうんでしょうけど。
自己責任を問うてはいけないのに、トラウマを抱えている人に
「トラウマはない」「ダメなのはあなた自身のせい」
と思考が流れる事があるのが、アドラー心理学の危うさといえますね。
まあ解説本や解説動画であれだけトラウマは存在しないって断言して、
トラウマの存在について補足説明を何もしてなかったら、そりゃ誰だって勘違いして当たり前って話ですね。
劣等コンプレックスなんていうのも、結局アドラーが作った言葉にすぎないので無視していいと思います。
劣等感で行動が出来なくなる原因については、学習性無力感について勉強したほうがよっぽど為になります。
知人にこの本を薦められて読んでみて、「トラウマは存在しない」という考え方にすごく引っかかっていましたが、あなたの「トラウマは科学的に証明されている。あなたのペースでゆっくり治していけばいい」の言葉に救われました。涙が出ました。心が少し軽くなりました。
ありがとうございます。
私が初めてアドラー心理学を知った時、ほんとうにトラウマで悩んでいる人を不幸にする可能性があると思いました。
私自身も本当に辛い時期があり、そのタイミングでアドラー心理学を知っていたら、自分を責めて立ち直れてなかった可能性もあったと思ってます。
ですから自分が思った事を発信するという理由だけでなく、誰かの助けになって欲しいという気持ちも込めて書いてました。
なのでこんな拙い記事でも、まろさんや、誰かの心が少しでも軽くなってくれたのなら嬉しいです。コメントありがとうございました。
ふつーの健康的な人に有用ならそれでいいんじゃないですかね?
必ずしも健康的じゃない人に配慮してやる必要もないでしょ
アドラー心理学に限らず、その人の中でだけ完結する分には勝手だと思いますが、それで他人を巻き込んで不幸な人が増えるのはよくないと思っております。
淘汰さんの理屈だと例えば、
階段は健康的な人にとっては普通に使えるんだから、足の不自由な人にわざわざバリアフリーを設置して配慮する必要もないでしょと言ってると変わらないと思います。
私は、健康的な人がアドラー心理学使えてるんだから、心の病気の人に配慮してやる必要はないでしょみたいなのは横暴だと思います。
もちろん私も何でもかんでも弱い人に配慮しろなんてほどの極論は思ってはおりません。
それに記事内でも触れてますが、心の病気やトラウマにはちゃんとした理由が存在します。それを存在しないというアドラー心理学はやはり良い物ではないと私は思います。
科学的根拠もないのに信じ込んで、他人を巻き込むのはどうなんだ?という警鐘を鳴らしたくて記事を書きました。その点ご理解いただけたらと思います。
アドラー心理学について私も、ぐみんさんと全く同じ意見です。身の回りに感化された人々が量産されていくのを確認しています。非常に危惧しています。
アドラーの教えを信じている人が、周りでどんどん増えていくのは怖いですよね
ネットでアドラー心理学について検索しても、危険性について語るサイトより、推進しているサイトの方が圧倒的に多いのは異常でしょう
もはや社会現象と化していて、この流れを止めるのは難しいんでしょうね。
せいぜい私達に出来るのは、本当に大切な人や自分自身を自衛する事くらいでしょう。
早く多くの人が間違いに気づいて、アドラー心理学で不幸な人が増えなくなるのを祈るばかりです